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なんまんだぶ

2012年7月24日

「なんまんだぶ しながら安心して死んでけ。」

「仏教は、お前の話やぞ」
師は常に慈海にそう示してくださっている。

人のタメになる話は、「人」+「為」=「偽」の話である。しかし仏教で語られる話は偽の話ではない。仏教で語られているのは、真実の話である。真実の話とはなんであるか?それは、慈海自身の話である。この慈海を真実たらしめようとする働きの話である。真実などどこを探してもないような慈海が、真実そのものになっていく話である。仏教とは、決して妄想で妄想を形作っていく自分探しの道具でも、明日になればその時の状況によってどう転ぶかわからない幻のような世間の正義の後ろ盾でもない。

数年前、私の父がガンに倒れた。急遽入院した父は、手術を待つ数日の間、心細い時間を病室で送っていたという。多くの方が見舞いに訪れてくださった。花を持ち、お菓子や果物を持って、多くの方が優しく元気づける言葉を投げかけてくださった。それはその方々のお気持ちとして、父はとても喜んでいたし、ありがたいこと。

しかし、父の不安は周りの優しい言葉とは裏腹に、徐々に高まっていったようだ。
それまで漠然としてしか捉えられていなかった「己の死」というものを、まるで掌の上に置かれたかのように、まじまじと現実のコトとして目の当たりにしていくと、言葉にならない不安と恐怖が体中を襲ったようだ。

ある日、そんな父の病室に親戚の爺さんが訪れた。その爺さん(と言っても父よりは若いのであるが)、病室に入るやいなや、大声でこう言ったという。

「何を情けない顔をしとるんじゃ!うだうだ言わんとはよう死んでけ!お前の母親も父親もその爺さんもばあさんも、無数の人が"なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ"と、そうやって死んでいったんや。なんまんだぶ しながら安心して死んでけ。それに何の不足があるか!」

父はハッとしたという。他人が聞けばとんでもないひどい言葉のように聞こえるかもしれないが、父にとってはこの言葉が心の支えになったという。

誰もが必ず死ぬ。生まれた命は、必ず死ぬ時があるのだ。これを読んでいるあなたも、いづれ必ず死ぬ。

そして、死というのは主体的には必ず過去形で語ることができない。「私は死んだ」という表現は絶対にできないのだ。「私は死んだ」という表現が、主体的には不可能であるように、誰しも死を経験することはできない。
(というと、臨死体験などの話を出してくるあわてんぼうさんがいるが、臨死体験というのも、今生きているからこそ語ることが出来る話なんだということを、ついつい忘れがちだ。今生きて語られる以上、それはただのその人にとっての"死にかけた"体験談でしかない。ここではそういう話をしているのではないということを、念の為に押さえて読んでほしい)

父は死を目前に感じていた。しかし、死を受容していたわけではない。受容できない死というのは、生の反対概念でしか無い。死が何なのかわからない者にとっては、生の先は、生の反対概念であり、それはすなわち闇でしか無いのだ。それは、本当の死を感じているわけではなく、闇に対する恐怖でしか無いのであろう。

生の先が闇としかとらえられなければどうなるか。人は、死を目前にすると、その闇から目をそらし、自分の過去を振り返り、後ろ向きで死に向かっていくことになる。そして、突然に後ろ向きで闇の中に落ちていってしまうのだ。まるで断崖絶壁の崖の先に、後ろ向きで歩んでいくように。

「後生の話(ごしょうのはなし)」という言葉がある。仏さんのお話、仏さんのみ教えのお話、お念仏のお話のことを、「後生の話」というのであるが、つまり、私がお浄土に生まれて往くという話、お浄土に生まれて往くというのはどういうことかという話。お浄土に生まれた後どうなるのかという話である。

慈海が玄関先の掃除をしていると、通りかかった近所のおばちゃんが話しかけてくることがある。最初は他愛もない「世間話」であるが、なぜかいつも最後にはこの「後生の話」になることが多い。「後生の話」は本当の話だからかもしれない。本当の話は、世間ではなかなかしにくいからだ。剃髪し、僧侶の恰好で掃除をしている慈海の前では、世間を離れた本当の話をしやすいのかもしれない。ありがたいことだ。

さて、この「後生の話」という言葉を見て不思議に思わないだろうか。死んだ後の話であれば、「死後の話」である。似たような言葉で「生前(せいぜん)」という言葉もある。葬式などで「故人には生前大変お世話になって」というセリフを聞くことがあるだろうが、この「生前」という言葉も不思議ではないだろうか。死ぬ前を指すのであれば「死前」である。

お念仏の教えには、「死」というものがない。この娑婆での縁が付きた時、極楽浄土に"生まれる"のである。極楽浄土に生まれた後の話であるから「後生の話」なのである。極楽浄土に生まれる前だから「生前」なのである。

日本を代表する心理学者であった河合隼雄さんの著書に『心の処方箋』という本がある。その本の中に「うそは常備薬、真実は劇薬」という言葉がある。うそというのは日常の人間関係を円滑にするための常備薬のようなもの。しかし、真実というのは、下手をすると命にかかわる劇薬のようなものであるから、取り扱いに注意しなければならない。もちろん常備薬だからといって乱用すればそれはそれで危険なことではあるが。というお話だったかと思う。
→ こころの処方箋 (新潮文庫)

「非常の言(ごん)は、常人の耳に入(い)らず」という言葉もあるが「後生の話」というのは真実の話である。だから世間ではなかなかすることができない。世間を超えたところで、世間を包括する話として語られるのである。

世の中では、人が死ぬと「かわいそう」と言う。若すぎる人が死ねばより強く「かわいそう」と言う。死はこの娑婆との一時の別れでもあるから、その気持はわからなくもないし、別れを悼む気持ちは否定するものではない。

しかし、死を、単なる不幸な出来事と捉えてほしくはない。死が不幸であれば、その人の生も不幸であることになってしまう。不幸な死という認識は、その人の人生全てを不幸なものにしてしまうことになることでもある。

私は浄土真宗の僧侶である。だからはっきりと申し上げる。

死は、不幸なことではない。

かわいそうな死というものは無い。かわいそうな人生なんて、ひとつもないのだ。不幸な人生なんてあるはずがないのだ。たとえ、いじめられて自死を選んだ人がいたとしても、その人の人生はかわいそうな人生ではない。たとえ大きな震災に襲われ、一瞬でこの世を去って行かなければいけない人がいたとしても、その人の人生は不幸な人生ではない。恨みを抱いて憤怒のうちに世を去っていったとしても、わけも分からぬままこの世を去っていったとしても、独り寂しく今生の最後を迎えていったとしても、病の苦しみに畳をかきむしりながら血まみれでこの世を去っていったとしても、その人の人生はひとつも不幸ではないのだ。

最初にも書いたが、仏教は真実の教えである。真実の話とは、すべての命を真実たらしめようとする働きの話である。真実の命を生き、真実そのものになっていく命に、不幸という二文字はふさわしくない。

なもあみだぶつ と言うお念仏は、その真実そのものが、称えた(となえた)者の上に顕現しているのだと、御開山は示してくださった。
それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(顕浄土真実行文類) 
阿弥陀如来という無限の真実が、有限の慈海の人生の上に顕現して開かれ、慈海の命を真実にするぞと願われている。この真実が慈海に届いた相(すがた)が「なもあみだぶつ」というお念仏であり、信心とは、この如来が慈海を無限の真実にするぞと願われている真実そのもののことを言うのである。縁に依ってふらふらとさだまらない慈海の中には探しても偽しか見つからないのだ。

真実に依って、真実たらしめようと願われているその人生には、幸や不幸という概念を超えたものがある。二律背反的に、その人の人生を定義することは、とてもさみしいことだろう。

弱肉強食の世界を生きていかざるをえない衆生に、弱肉強食を超えた、本当の平等の世界がひらかれている。それは、生と死を超えていく世界だ。なんまんだぶ とは、生と死を超えて、生きて生まれて来いよという、阿弥陀如来という真実からの呼び声なのだ。

だからこそ、その呼び声を聞こう。どうか、倶(とも)に聞かせていただきましょう。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ と。


こういった話は誤解を受けやすい。やもすると、言葉の表層だけで「死を肯定している!自殺を進めている!」と短絡的に反応してしまう人も多い。劇薬の話であるから、ほんとうに難しい。真実を言葉を介して語る話であるからこそ、「言葉はきちっと使えよ」と師にも常に注意されているが、慈海は勉強不足のため、語りきれないこともある。だから、徐々に勉強を深めて、また別の機会に続きを書いていきたいと思う。


合掌 なんまんだぶ



※「信楽開発の時剋の極促」に関して、初発の義ということや、真実信心必具名号と言う話にも膨らませたかったのですが、その辺は別の機会にまた整理して書きます。

慈海のほしい物リスト

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合掌 なんまんだぶ